シン・エヴァンゲリオン劇場版2026/03/03

エヴァは、旧劇場版『Air/まごころを、君に』でキレイに完結した。と、個人的には考えている。だから本作を観るまで、新劇場版はリメイクというより「凄まじくクオリティの高い二次創作」として楽しむスタンスだった。

観る側にとっては、同じ観る側による二次創作『GQuuuuuuX』が琴線を弾きまくったのとは違って、作る側によるセルフ二次創作が必ずしも「ツボにハマる」とは限らない。本作で言えば、初期ロットちゃんの「○○って何?」連発がどうにも居心地悪くて、村での話はちょっとツラかった。綾波が綾波らしくないのは、TV版第26話もそうだったけど、なんか許せない気持ちになるみたいだ。
まあそれでも、ヴンダーに戻ってからの展開はさすがの緻密さと豪快さで、エヴァな面白さを十分に楽しめた。よく分かんないけどそれっぽいカッコ良い設定で、よく分かんないけどそれっぽいカッコ良い用語で。マイナス宇宙とか新しい槍を作るとか、よく分かんないけどそれはそれで良いんだよ、だってエヴァなんだから。

そして驚くべきことに、新劇場版は二次創作ではなく紛れもないリメイクだった。30年前とは展開が大きく変更され、作画が大きく進歩しているにも関わらず、既視感が溢れ出てくる。最終的に描かれていたのは、旧劇場版を塗り替えるものではなく、TV版すら否定するものではなかった。庵野監督が抱いていたテーマは、かつて夢中で観ていた作品は、何も変質していなかった。それが、なんとなく嬉しかった。

勝手に分析するならば、エヴァは女性を描くことに強くこだわっている。綾波は、主人公にとって女性ではなく「男性から見た異質な存在」の象徴な気がする。アスカは、愛に飢えて脆く、愛に満ちて強い、主人公にとって「異性としての女性」だろう。ミサトは、娘として過去を背負い、女として葛藤し、母親として去っていく、まさに「女性」そのものだ。
そんな中で、主人公にとって大きな存在の男性である「父親」のゲンドウは、息子との接し方に惑い、ある意味では怯えている。本作ではその隠された心情がより直接的に描かれたが、『まごころを、君に』でも彼は「怖かった」と言っている。いろいろ暴れたり壊したりとアニメ的に面白い部分は変わっていても、その奥には同じ人間の内面の物語があったわけだ。

社会現象となったことで、ディズニーとジブリしか知らない連中が「なにこれ分かんなーい」とか言い出して、新劇場版はその回答でもあっただろう。しかしエヴァを「分かるもの」に作り直すのは、どう考えても間違いだ。だから、「何が言いたいか」を分かりやすくしつつ「何をやってるか」をますます意味不明にした本作は、リメイクとしては見事で痛快な出来と言える。その一方、マリの投入でアスカの立ち位置が微妙になったり、巨大綾波の存在感が薄くなったりと、旧劇場版の方が良かったと感じる点があったのは残念だ。
タイトルの「𝄇」が何を意図しているにせよ、おそらく庵野監督はもうエヴァを作らないだろう。本作が「ヱヴァンゲリヲン」でなく「エヴァンゲリオン」なのも含めて、「シン」には、ウルトラマンや仮面ライダーと同様に、長く自分の中にあった大きなものについての集大成とかケジメとかいった意味があるのではないかと思う。それは自ら作品を創り上げる者ならではの矜持であり、版権を持ってるからといって金儲けのために名作を毀損するような連中とは、根本的に意識が違うのだ。

で、完全新作シリーズは鶴巻・谷田部監督でやるらしい。心配なのは、「ガンダム化」のために世界観を壊さないかと、そして何より、庵野秀明が黙っていられるかどうか。

www.evangelion.jp/

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://spin.asablo.jp/blog/2026/03/03/9839799/tb